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今からご紹介する文章は現在アメリカで活躍するTetsujiさんがマリスト時代の思い出を綴ったものです。 1975年の春、みずぼうそうにかかってしまい中学への入学が遅れてしまいました。 ほんとなら、沖縄から同じく熊本のマリスト中学というところへ進学する生徒達と 一緒に飛行機に乗るはずだったのですが、 3日ぐらい遅れて、母につきそってもらって熊本まで行きました。 ふとんの手配やら、寮の先生に挨拶をした後、母はそのまま沖縄へ帰りました。 寮は2階にあり、 教室3つぶんぐらいの広さの両脇に2段ベッドが2列ずつズラーッと並んでました。 そこで、120人ぐらいの生徒達との共同生活が始まりました。 最初の日あわただしく一日が過ぎ、 夜ベッドで横になるまで自分がどういう環境におかれたのかに気付きませんでした。 ベッド脇の鉄格子の向こう側に見知らぬ人が寝てました。 ふと、その前の夜妹と一緒にテレビを観た事や、 昼過ぎまで一緒に居た母の事を思い出しました。 家がとても恋しくなり、帰りたい思いで泣きだしてしまいました。 いきなりホームシックでした。 寮生活は「忙しかった」です。放課後、部活動(バレーボール)で汗を流した後、 慌ててお風呂に入り、食堂までダッシュ。 そして7時半から自習室に閉じ込められました。自習は11時まで。 途中30分の休憩があり、食堂に降りて菓子パンを食べたりしました。 友達は比較的簡単にできました。 生徒の半分は沖縄出身って事もあって馴染み安かったです。 同じ小学校から来た例のライバルも同じくバレー部でした。 学業的にはまぁまぁで120人中、 20から30番ぐらいの間をうろついてました。 小学生の時は当たり前のように務めていた、 学級長などに選ばられることもなく、 比較的目立たないでいられた事はある意味でラクでした。 集団生活はそれなりに楽しくもありました。 でも、家に帰りたいという思いは強く抱いてました。 入学して一月後ぐらいに強歩大会というマラソンの距離(40キロでしたっけ?) を歩く大会がありました。4時間以上かかりました。足には豆もできたし。 その大会には沖縄出身の生徒達の父兄もたくさん来ていて、 僕の父もその中にいました。 その週末、父と一緒にホテルへ泊まりました。家に帰りたい、 と父に相談したら、 中学三年にあがる前にその気持ちが変わらなければ、 沖縄に戻ってきたらいいと言ってくれました。とりあえず、 二年間は熊本で頑張るという事になりました。 その夏、沖縄に帰省する前にちくのう症の手術をする事になりました。 右、左と2回に分けて行なわれたのですが、とんでもない思いをしました。 基本的に前歯の神経をいっぺんに全部ぬかれるようなそんな感じです。 局部麻酔だったので、 ドリルの恐ろしい音とか聞きながら拷問されてる感覚でした。 一時間ぐらいかかったと思います。終ったと同時においおい泣きました。 手術に間に合わなくて遅れて来た、家族の姿をみたら、 よけいに涙が止まらなくなりました。ほんと、辛かった。 それからは一週間、 病院のベッドで次の手術の恐怖におびえながら過ごしてました。 母と妹が毎日心配して看病に来てくれて、昼間は良かったのだけど、 夜になると、病院から逃げ出す事ばかり考えてました。 所詮、逃げることはできないので、 歯をくいしばって二回目の手術に立ち向かうことにしました。 二回目は泣かなかった。終った後、ホッとしました、、、。 中学2年生にもなると寮生活にも慣れたというか、それが当たり前になった。百数十人分の2段ベッドが並べられた環境にプライバシーはなかった。個人の荷物も狭いロッカーに収められるだけの最小限だった。朝起きてから、夜寝るまで常に周りに誰かがいた。そしていつの間にか生徒同士の間で、様々なコミュニティーができていた。 僕の属するコミュニティーはバレー部だった。1年生の時は、4,5人しかいなかった同級生の部活員も、2年の2学期になって、3年生が引退すると、10人以上に膨れ上がった。剣道部だった、小学校のライバルもバレー部に入ってきた。一応、毎日練習にも励んだけれど、ただ、みんなで一緒に居る事がとても楽しかった。なので、とても弱かった。大会ではいつも一回戦で敗れた。 そんな中で、一番の仲良しがY君だった。勉強は僕の方ができたけど、彼はいろんな意味で賢かった。それまで音楽といえば歌謡曲しか知らなかった僕に、ビートルズを紹介してくれたのも彼だった。寮にはレコードプレイヤーがひとつあった。日曜日の午後などに、Y君と一緒にビートルズのレコードを聞いた。他にもカーペンターズやクィーンも聞いた。その頃女の子に大人気だったベイシティローラズもこっそり聞いた。僕達二人は兄弟のようにいつも一緒だった。 沖縄の実家の事は忘れかけていた。でも、入学当初の父との「3年生には沖縄に戻る」という約束は頭の中にあった。このまま、皆と一緒に高校までここに居ようかと悩んだりもした。その方が父も喜ぶだろう。決めきれずにいた。父は、律儀に約束を守った。3学期が終了すると、2歳上の兄を連れて、父が迎えにきた。それで良かったと思う。おかげで、家族に囲まれながら、もうしばらくの間「子供」でいる事ができた。 小学時代のライバルがバレー部のキャプテンを引き継いだ。部員の署名入りのバレーボールと皆からのメッセージが入ったテープをお別れにくれた。気のきくやつである。彼は今沖縄で医者をしてるらしい。 Y君はどうしているのだろう?ボールは失くしてしまったけれど、テープは今でも持っている。そして、あの頃の皆の声を聞くことができる、、、。 その後、沖縄に帰る前に、父は僕と兄を東京の叔父のところまで連れて行った。途中大阪に立ち寄った。大阪城を観光したあと、父は宿をさがしていた。いきさつは良く覚えてないけど、通りすがりのアカの他人のオジさんのところに泊めてもらえる事になった。家まで案内すると「私はでかけますので」と、オジさんは見知らぬ僕達に家を任せた。娘と二人暮らしの家みたいだったけど、その晩は誰もいなかった。兄と僕は2階にあった、娘の部屋で手塚治の「フェニックス」を読み、びんに入ってた飴玉を遠慮せずにいっぱい食べた。そして一晩寝るとその家をでた。あのオジさんは一体何者だったのだろうと、今でも不思議に思う。 最後に
なお、Tetsujiさんの文章は以下のご本人のHPより引用させていただきました。この場を借りて厚くご御礼申し上げます。 http://tetsujik.hp.infoseek.co.jp/ |
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